昭和43年1月1日 元旦祭 ●② 大坪かよこ
おめでとうございます。
毎年毎年のことながら、もう、本気で思うんですけれどもね、もう本気で今年こそは今年こそはと、ね、もう本気で今年こそは、教主様がおうせだして下さっておられます、全てのことに実意をもって取り組ませて頂こう、本気で改まるぞと、本気で磨かせて頂くぞともう、本気で思うんですけれども、一年経ってみますと、それが、大変目の粗いことになっており、それが相済まんことになっておるのにもかかわらず、やはりおかげだけは蒙っておるんです。
私、あの、昨日から、一昨日から昨日にかけても申しておることでございますけれども、御理解に今月今日で一心に頼めと、おかげは和賀心にあり、もうその今月今日で一心に頼むところだけは、確かに一心に頼んできておるのでございますけれども、さあ、おかげは和賀心にあるとおうせられますところの、和賀心になっていないのに驚きますくらい、皆さんでもやはりそうだろうと思うんです。
でも、おかげを受けておるのです。とりわけ私ども、合楽にご縁を頂いております信奉者のみんなは、去年というお年柄がどういうお年柄であったかということを思われただけでも、ま、大変な広大なおかげを受けております。
どうぞまた、毎年おんなじことでございますけれども、一つ今年こそはと、やはりほんとに思わなければいけません。
そのできるできんは別として、その思うことが神様に、通うておるのじゃなかろうかとこう思います。もうほんとに、親孝行な私にならせてもらいますと、親に子供が言うようにです、あれがこう言うてくれたと喜ぶ、といういて実際は、親孝行はでけていない。それでも本当にお母さん、ほんにお父さん、もう今年こそは親孝行するばい、と心から言うたら、やはり親には通じるようなものじゃなかろうか。そして実際は親孝行はでけていない。というような、むしろ親に歯がゆい思いばかりをさせた一年であったのでございますけれども、おかげだけは蒙ってきておるのです。
ね、どうぞ、おかげを頂きましてね、本気でやはり改まる、本気で一つ、もうほんとに思うんですね、そのこちらが出来なければ出来ないほど、その本気で限りなく美しゅうなりたいなー、もう美しゅうなったら有り難いことは分かっているんだけれど、ね、有り難くなりゃおかげも頂くことは分かっているんだけれども、なかなか美しゅうなれない。汚いものが次から次と出てくる。それこそ磨いても磨いてもということでございます。
ね、私は三十一日の朝のご祈念のときに、神様からいわゆる、その来年のことですね、今年のことを私はお願いさしてもらいよりましたら、●② いよいよ大きく、いよいよ豊かにと頂きました。
ね、ですから神様は信心ができんでも、いよいよおかげを下さろうとしております。しかも大きく、しかも豊かに、下さろうとしておるのです。ですから私どもはそのおかげをどうでも頂きたい。願わして頂くのでございます。ね、そこで私どもは、ここにいろいろそれぞれに工夫を致しまして、本気でそういう信心に取り組ませて頂く、ね、私は今朝から、夕べがこの準備をさせて頂きます、二時半頃までかかりました。
してちょろっと寝たと思うたら、もう起こされました。
その起こされたときに私は、一生懸命お夢を頂いておった。ちょうど今ここで、あの大払いをみんな奏上致します。声の低い人もありゃ、いわば高い人もある。ね、涼しい声を出す人もありゃ、どら声のような声を出す人もある。けれどもそれが一つになって、もう、なんとはなしに有り難い有り難い、一つの音調というかね、調子になってあの大払いが奏上されております。そういうような調子で私が先唱して、沢山の人と一緒に大払いをあげておるところである。ね、途中で起こされたのでございますけれども、も、そのことから思うのでございますけれど、ね、ほんとに今年こそは、こういう一つの調子を揃えた、家庭でいうならば、家族勢を揃えた、お広前でいうなら信奉者全部が、心を合わせ力をあわせての信心をさせて頂く、ね、でけておりますけれども、より、いわばそこんところを、より有り難い勢信心にならせて頂こうと、勢信心のひとつおかげでです、神様が言うて下さる、も、いよいよ大きなおかげ、いよいよ豊かなおかげを頂こうと思うのでございます。
けれどもやはり、今申しますように、本気で思わなければいけません。
ね、も、ほんとにもうこげなこっちゃいかん、もうほんとにお父さん、ほんとにお母さん、親孝行しますよ、今年こそは、ね、うそじゃないほんとに思う、その思いがやっぱほんとにできにゃいけません。
もう今年こそはほんとに、今度教会になりまして初めての、この六日から寒中修行が始まります。寒中のご祈念修行でございます。ですから日頃はお参りがでけない方でもです、一つ本気で思うてみて、一ヶ月はできなくても、五日でも良いじゃないですか、朝参りていうものがどういうようなものかということを知らない人が、合楽には随分多いんですから、ね、いわば、朝のご祈念にもしできなかったら、夜のご祈念でもと、できればその一ト月間でもと、その修行をさして頂いているうちにです、なるほど、おかげを頂くということが、お参りをさせて頂くということが、信心をさせて頂くということが、有り難いんだと分かって、それが少しでも、延長していく、少しでもそれが成長していきゃ、有り難い事です。ね、そのような事柄からでも一つ、本気で信心をさせて頂きたいと思います。今朝から母が出てまいりまして、もう一番に大坪つる代のお届けがしてございました。
昔の私でしたらですね、一番始めにお初穂が女のお初穂がしてあったんでは私が気分が悪かったに違いないです。も、はいってくるのが一番始めに女子が入ってくると縁起の悪か。もう、そういう信心をしておっても、そういう時代がやっぱあったんですけれども、この頃では、おかげでその縁起というようなことは全然考えんで済むようになりました。
ね、もうほんとにですね、私はあの信心させていただいてから目指すところはここだと思うんです。
どんな場合でも、ね、どんな場合でも同じなんです。女でも有り難い、男でも有り難い、ね、正月早々、あげなことを事を見たとか、ああいうことを聞いたとか、縁起でもない、というのじゃないです。
私どものいわゆる、和らぎ喜ぶ心をもってするなら、そんなことはもう全然問題じゃないです。
ね、それが有り難いことに縁起を担ぐなら、いいですよね。けども悪いことに縁起を担ぐと、もう一日が暗い一日であったり、またそういうような心がですね、暗いことを呼び起こすような元にもなりかねないのでございますから、それは不思議な働きがあるんですね、私どもの心の動き一つで、ですから有り難いことへ、有り難いことへと心を使わせていただく修行を本気でさして貰わなきゃならんのです。
今日は、私今日は、秋永先生のお説教をお願いしておったんです。ところがあのご承知のように、五時からここからあの青年会の方達が中心で、五十何名バスでご本部参拝を致します。五時に出発致します。その皆さん準備があるので、今日はもう挨拶だけして帰るという、只今ことでございましたから、秋永先生のお説教を取り止めて、ま、一言私がご挨拶をさせて頂いているわけでございますけれども、どうぞ、そういうおかげを頂きましてですね、例えば私、その今朝、母が出てまいりましたのも、訳があったんです。
今朝方お夢を頂いた。それはね大きな船にその、三十名あまりのお装束を着けた先生方が乗っておられた。
第一番に桂先生、ね、石橋先生、福岡の吉木先生、荒巻弓次郎先生という知った先生方ばかりと、知らん先生方が随分乗っておられた。中には去年亡くなられました、福岡の吉木、三代目の吉木辰二郎先生も乗っておられた。そしてそれにですね、小船がこう、引っ張ってきてある。その小船にはですね、まあ、こげんもいっぱいと思うくらいに、蛤がいっぱい積んであるというお知らせだったというわけです。
ね、私どもはそういうおかげを頂きたいと思うんです。ね、ほんとに、これは、その、皆さん、お体験、ここで感じられることでございましょうけれども、お広前が広うなれば広うなるで、やっぱりいっぱい、ここいっぱいの人たちが集まって来るでしょうが。
椛目の時には椛目、合楽では合楽、ね、ですから、どうでも神様はそういうおかげを確かに自由自在に下さることのできられる、力を持っておいでられる神様でございますから、それを頂かせて頂くために、私は今日申します、本気で今年こそ良い信心させて頂くぞ、やっぱ思わなきゃいけません。
でけんでもええというてもう始めから言うたらいけんけれども、本気でですね、そんときは思いよる、ね、その思いをですね、神様に私は聞き届けて頂かにゃいけん。
次には福岡の、じゃない、善導寺の久保山さんの奥さんが、お参りしております。
ね、今日は実を言うたら羽織袴で、お参りしなきゃならんのでございますけれども、袴こそはいておりませんけれども、白足袋をはき、しかも、そして羽織を着ておるつもりで、お参りさせて頂きましたというて、あのお紋付だけを着て、今朝から朝のご祈念に参って見えました。それが今朝方、先生もうほんとに有り難い、有り難いですね、枕元にね、あの、亡くなられました久保山先生が羽織袴でもう白扇を持って立っておられた。
もうその髪の毛がですね、もう銀色に光るように真っ白い髪の毛を綺麗に分けられてですね、そしてその枕元に立たれた。亡くなった主人が、いわゆるきちっと羽織袴に、ね、扇子を持ったようなきちっとした信心をせろよと、ね、御霊ながらに私もしておる。だから、あんたもせろよと、こう言うてくれておるような気が致しましてから、というて、今朝からお参りになりました。ね、そういうお互い信心を一つ本気で目指させてもらう、本気で神様に喜んで頂く今年は信心させて頂くぞと、思わせて頂く、それだけでもです、おかげを受けられる。ね、今月今日で一心に頼のめい、おかげは和賀心にあり、ほんとに和賀心にあるのでございますから、和賀心にならせて頂くということを願わなければならんのだけれども、今月今日をもう一心にです、片時も忘れることのないようにして、願ってきたこと、頼んできたことは何かというと、おかげのことばかり、自分のことばかり、ね、頼むことばかりは沢山あったけれど、その受け物であるはずの、和賀心になっていない。私はここでおかげと仰るのは、ここで和賀心を持って頂けれるおかげを受けるときにはもうすでにそれは、力になり徳になるんだということを思うのです。
ね、その和賀心になれば先から申しますようにです、ね、縁起なんかもう担ぐ心が起きてまいりません。一切が有り難い、ね、それは一つはこういうことですね。いわゆる肉眼を置いて心眼を開くからですね。
どんなに私どもが腹の立つような問題でありましても、どんなに情けないと思うような問題でありましてもです、ね、それを心眼を持って見ますと、それは有り難いことなのですから、そこが分かるから、縁起なんか担がなくていいんです。有り難いことにばっかり、考えられる。有り難いことにばっかり思えれるわけなのです。
ね、今年はどうぞ一つ、特に神様が言うて下さる大きないよいよ、大きな、いよいよ豊かな、と仰るのですから、その豊かな大きなおかげをです、頂かせてもらうために、私どもが一つこの私どもの枠を一つとらなければ大きくなれません。
今日の大坪総一郎というものは、もう明日の私、それであってはならない。
ね、自分のこの我というものを取ることなんでしょうね。そしても、限りない大きなおかげと豊かなおかげを頂かせてもろうて、ね、有り難い勿体無い信心生活に入らせて頂きたいと思います。どうぞ、もう教えたいこともいろいろありましたんですけれども、あの、そんなふうで時間もありません。どうぞ一つ、そのところをしっかり神様に、どうぞ今年こそは、本気で良い信心させて頂くぞ、本気で神様に喜んで頂くような信心をさせて頂くぞ、そして私がどうあれば、神様が喜んでくださるか、私がどう変われば、神様が喜んでで下さるということを分かっておられる方が沢山ございましょう。だから本気で、そこに一つ取り組ませて頂いて、ね、いよいよ有り難い年にしていかなければならんと思うのでございます。時間でございますけれども、ご挨拶に代えさせて頂きます。有難うございました。